愛しなさい、愛が律法を全うするのです。わたしたちは神様の愛によって生まれました。神様の愛によって今生きているのです。神様はわたしたちに愛するように求めておられます。求めておられるのではない、わたしたちは自然を愛する、人を愛するように造られているのです。
神様はすべての人に、生きるために一番必要なものをお与えになりました。それは善いことをする心です。愛する心です。苦しんでいたら助けてやりたい、悲しんでいたら慰めてやりたい、そんな愛する心です。
愛しなさい―生きる命を喜びなさい。愛は生き生きと生きることです。自然が生きる、人が生きる。そして自分が生きるのです。自然のために働く、人のために働く。一緒に生きる。律法は生きるための神様のみ言葉です。愛は律法を満たすものです。
わたしたちは父、母を大切にします。これは当たり前のことです。そういう心を持っている。律法で大切にしなさいと書かれているから大切にしている訳ではありません。
父、母と子は特別な関係です。この子は神様から与えられたもの。親子の関係です。家庭は特別な共同体です。兄弟はお互いに欠点を十分知っている。勿論良いところも知っている。お互いに隠すところがない。遠慮がない。安心する関係がある。深いつながりです。
イエスは言われました。わたしの母とは誰か。わたしの兄弟とは誰か。天の父のみ心を行う者がわたしの兄弟、姉妹、母である。 神様への道を歩む者が兄弟、姉妹、母となる。神様の中に深く入って行く、その時に兄弟を得る。肉親を超える深いつながりが出来る。教会に集まる人が皆、兄弟、姉妹、母である安心のうちいる。そうなったらいい。
兄弟が罪を犯した。わたしたちは今まで、兄弟であっても、罪を償わなければならない。罰せられて当然だとも思っていました。イエスは言われます。あなたの兄弟ではないか。忠告しなさい。忠告とは光をもたらすと言う意味があるそうです。責めるのではない。罪を犯した兄弟は光を避けている。温かさ、微笑み、心の豊かさを忘れてしまっている。大切なのは兄弟のつながりが消えてしまっていたことを語り合うことではないですか。語り合えたら兄弟を得たことになる。語り合えなければ、聞いてもらえないなら、兄弟のつながりは切れてしまう。教会から離れてしまう。徴税人と同じように見なさい。仲間から、力をもって不正にお金を得る者になってしまったのか。
第一朗読エゼキエル書を読みました。悪に対して厳しく語ります。 主は言われます。あなたが罪を犯した人と出会ったら、その罪人に、今歩いているその道を離れなさいと、きつく言いなさい。言わねばならない。悪人に出会ってその姿を厳しく語り、悪から離れなさいと言わなければ、その悪人が自分の罪のゆえに死んでも、血の責任はお前の手に求める。お前の血によって贖うのだ。
「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。」(創世記9・6) 悪に無関心であってはいけない。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」(エゼキエル33・11)
神様を見つめる。生きる、愛する。そして、悪を見つめる。わたしたちは兄弟、姉妹、父、母だろうか。