水を求める。水を飲む。
イスラエルはエジプトを脱出しました。荒れ野を旅します。葦の海から三日歩いた時、水を求めて歩いた時、マラに着きました。マラで水を見つけました。しかし、その水は苦い。飲めない。マラは苦いという意味です。主は木を示されました。その木の枝を一本水の中に入れると、水は甘くなりました。 今日、イスラエルはレフィディムに着きました。水がない。水がほしい。人々の不安は激しくなってゆきます。 エジプトから出て、わたしたちは毎日、食物の心配、水の心配をしなければいけない。わたしたち大人も子供も渇いて死んでしまう。、家畜も渇いて死んでしまう。
モーセは主に助けを求めました。主は言われます。わたしは岩の上に立ちます。あなたの前に立ちます。あなたはナイル川を血に変えたその杖で岩を打ちなさい。そこから水が出る。
モーセはその地をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けました。
メリバ:人々は神様とモーセに不平をからい、石で打ち殺そうとするまでの争いとなる。
マサ:そして、食物を与えてくださり、水を与えてくださった神様を試しているのです。
イエスはヤコブの井戸のそばに坐っている。サマリアの女が水を汲みに来ます。イエスはサマリアの女に「水を飲ませてください」と言います。午後の事です。女の人が独りで、水を汲みに来るには不自然な時間帯。女は話かけられたくない人でしょう。女はイエスに言います。なぜ、あなたはサマリアの女に水を飲ませてほしいと頼むのですか。ユダヤ人とサマリア人は交際しないのではないですか。イエスは言われます。わたしは生きた水を持っている。わたしに頼めば生きた水を与えましょう。あなたはヤコブより偉いのですか。わたしたちは、人も家畜も、この井戸から水を飲みます。イエスは言われます。この井戸の水を飲む者は、誰でもまた渇きます。
*わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。
水は生きるものに命を与えます。天地創造、第一日目に神様は光を造られました。すべてのものが命の霊である光の内にいる。第二日目に大空の上に、また大空の下に水を置かれました。天の水、地の水、そして地下の水、神様は生きるものを水で包んだのです。水は生きるものを包んでいます。天の水は雨となって生きるものに命を与えます。地の水は海となります。そして、地下の水は泉となり、井戸となります。
水は命を持っています。(エゼキエル47章)神殿から流れ出る水は川に入り、海に入ります。汚れている川が、神殿から流れ出る水によって清くなります。魚が生きる。泳ぎ回る。川の中の生き物が生き返ります。海が清くなる。
そして、イエスは言われます。わたしの清い水をお前たち降りかける時、お前たちは清められる。
(エゼキエル36・25-)
本所教会で復活祭に4名の人が洗礼を受けます。水に沈み、今の自分が水の中で死ぬ。そして、心と体が水で清められ、新しい自分が生まれる。
生きる水は神様からのいのち、み言葉です。イエス様からの水を飲みます。イエス様のみ心が自分の中から泉のように湧き出ますように。言葉となります。愛の行いとなります。出会う人に愛を与える者となることが出来ますように。