「三位一体の主日」(C年)説教
2013年5月26日・加藤 英雄師


 

  入門講座で尋ねます。神様の名は何ですか。イエスです。イエスの名は正しいけれど、それは本名ではありませんね。神様の本名は何ですか。分かりません。本名は「父と子と聖霊」です。父と子、子がイエスです。そして天の父が父です。「父と子と聖霊」を三位一体の神と表現します。この中で一番分かりづらいのは聖霊という名の神様です。三位一体については洗礼を受けてから勉強しましょう。 三位一体の神は何ですかと言われたら、神様について考える。信じる、信仰は神様をそのまま受け入れることではないですか。天の父は御言葉と聖なる力によって人に命の喜びをお与えになる。御言葉とはイエスではありませんか。聖なる力とは聖霊ではありませんか。
三位一体とはイエスが神様だという告白です。イエスが神ですという信仰告白です。弟子たちはイエスと出会い、イエスと一緒に生活しました。イエスは毎日、町に出て、話をしました。毎日、病を癒しました。時には悪霊を追い出しました。人々はイエスに権威を見た。イエスは神を語ったのです。神様の思いやり、神様の温かさ、神様の厳しさを語ったのです。人々の心が開きました。神様が自分を見ている。父さんのように、母さんのように自分を見ている。自分の悪さ、自分の弱さをしっかりと見る機会が与えられたのです。ある時は、驚くべきこと、みなの前で死んだ人が生き返ったのです。 弟子たちはイエスを見ている。毎日、イエスの話に耳を傾けている。業に心を打たれている。しかし、イエスは律法を守らない、律法を軽んじているという噂が立った。律法学者、ファリサイ派の人々がイエスを色々な形で聖書について試そうとする。誰もイエスにかなわなかった。そして、今日の福音で言います。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」律法についてわたしの言動があなたがたにはよく理解できないことがあると思う。わたしは書かれた律法を超えて、悪とされている人、しかし、神を求めている人に慰めを与えた。希望、喜びを与えた。わたしを非難する人に、律法学者、ファリサイの人々に律法の心を説いた。律法の文字を超えた神様の心を説いた。これらのこと、また、これから起こることは、今、あなたがたには理解できない。しかし、父とわたしによって送られ、注がれる聖霊によって悟る。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる。わたしがあなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。(ヨハネ14・10-)
出来事が起こります。イエスがローマ皇帝に反逆する者として訴えられた。イエスは反逆者として十字架を背負う。十字架を背負い人々の中を歩く。ゴルゴタへの道を歩く。そして、十字架に釘付けされ、命を落とされたのです。弟子たちは逃げた。イエスを離れた。イエスが見えなくなった。
イエスが復活された。イエスは言います。すべて父の思いです。父の人を愛する業です。そshして、わたしは父と一つ。父の思いのまま、苦しみを受け取りました。父の人への愛を人であるわたしが語り、愛を行ったのです。父の思いはわたしの思い、わたしの思いは父の思いです。
 聖霊と言う神さまは、聖なる力と言いました。父の思い、子の思いが行われる。思いが行われるのは聖霊の力です。信仰は神様とつながること。自然とつながること。人とつながることです。つながり、心と心がつながる。聖霊によって心と心がつながるのです。聖霊によらなければ頭の中で知っている、そういう考えがあるで終わってしまいます。つながりが生きない。それはつながりではない。生きる、愛する―聖霊によって生きる、愛する、その喜び、力が生まれる。子イエスが父と、父が子イエスと深くつながっている。聖霊によってつながっているのです。父が子に伝える。聖霊によって伝えるのです。子が父の思いを語る。聖霊によって語るのです。わたしたちは神の命を注がれ、生きている。聖霊によらなければ神の命を生きることが出来ない。
三位一体の神、父と子と聖霊が生きる命を、時間の中で、場所の中で示されるのです。神様の思いは一つです。父と子は聖霊によって一つです。


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