「復活
第3主日」(A年) 説教
2011年5月8日・加藤 英雄師



日曜日、二人の弟子がエルサレムからエマオと言う村に向かって歩いていた。イエスが死んだ。十字架にかかって死んだ。イエスの出来事は何だったのか。二人はイエスについて話し合い、論じ合う。情熱を持ってイエスを語り尽くしたい。しかし、わたしたちはもうイエスに会うことは出来ないのだ。
イエスは熱心に語り合う二人を見る。イエスは二人の心の中に入りたい。この道を一緒に歩きたい。しかし、二人の熱心さは、お互いに、自分の思うイエスを語っている。その話は何の事ですか。クレオパが答え、イエスの出来事を語り始めた。そして、言います。 今日、婦人たちが墓に行って見ると墓にご遺体が無い。そして、その時、天使たちが現われて婦人に告げたと言うのです。イエスは生きておられる。

 イエスと墓で会うことは出来ない。天使がイエスは生きていると告げた。死んだイエスに会いに来たのか。イエスは墓の中にはいない。生きておられるイエスと出会いなさい。どんな出来事でも墓の中に入れてしまえば、その出来事は動かない、働かない。どんな方でも墓の中に入れてしまえば、動かない、働かない。あぁ、そうか、神様を律法の文字の中に見るとは、神様を殺しているのではないでしょうか。文字、言葉は墓ではないですか。文字は、言葉は動かない。動かないから生きていない。二人はイエスを墓の中に閉じ込めてしまっていたのではないでしょうか。動かないイエスについて語っている。 
(わたしたちはみ言葉について考えます。神様のみ言葉は人となられた。肉を持ち、生きておられた。そして、今、み言葉は新しい命に生きておられる。)

 あぁ、物分りが悪く、心の鈍い者たちよ、あなたがたはイエスの言われた「復活の命」を信じられないのか。メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。

 二人とその男の人は一緒の食事の席に着いた。その男の人はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。その時、二人はこの男の人はイエスだと分かった。メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずではなかったか。メシア・キリストは苦しみを受け取りました。天の父はイエスに与えられたのです。この杯を飲みなさい。すべての人の罪を飲み干す。イエスはその杯を飲んだ。その時から、イエスは全く捨て置かれた。人々から、弟子たちから、神様から、孤立してしまった。

 「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27・46) 「渇く」(ヨハネ19・28)…信仰によってわたしを包んで欲しかった。
自分である事のすべてを捨てられた。ごみとなった。そして、ついに三日目にイエスは神様の栄光に生きるものとなったのです。

 イエスは生きておられる。わたしたちはどこでイエスに会うのでしょうか。
イエスから洗礼に呼ばれていると思った時。修道者、司祭の召命を考える時。
深く祈りたい時。また、自分が何も出来ないと知った時。自分を造っているものがすべて神様からの恵みだと知った時。すべての出来事が神様の思いであると知った時。わたしの命が神様からの愛だと知った時。

 イエス様を求めます。求めて、求めて、求めてもいよいよ混乱してします。そして、心が空になったとき、イエス様がわたしたちに静かに語られます。

 復活のイエス様をますます喜びたいと思います。

 


戻る